中村 仁志ナカムラ ヒトシ |
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所属学部・学科等
- 文学部 総合人文学科 世界史専修
職名 (資格)
- 教授 1997年 4月 1日
出身学校・専攻
- 大阪大学 文学部西洋史 史学科 1978年 卒業
出身大学院・研究科
- 大阪大学博士課程 文学研究科西洋史 1983年 修了
取得学位
- 博士(文学) 2006年 3月 関西大学
専門分野
専門分野 | キーワード |
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ロシア史 | |
西洋史 |
研究課題
現在の研究課題名 | ロシアの対タタール関係 |
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研究態様 | 個人研究 |
研究期間 | |
研究制度 | |
キーワード | ロシア;タタール |
研究分野 | 西洋史 |
研究テーマ概要 |
現在の研究課題名 | ロシア史におけるカザーク |
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研究態様 | 個人研究 |
研究期間 | |
研究制度 | |
キーワード | ロシア;カザーク |
研究分野 | 西洋史 |
研究テーマ概要 |
現在の研究課題名 | ロシア史における辺境 |
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研究態様 | |
研究期間 | |
研究制度 | |
キーワード | ロシア;辺境 |
研究分野 | 西洋史 |
研究テーマ概要 |
研究経歴
- 「ロシア史におけるカザーク」は学部学生時代からの研究テーマであり、近年はカザークの形成と深いかかわりのあったタタールの動向をも視野にいれつつ、研究のさらなる深化、発展をはかっている。
所属学会
所属学会・団体名 | 役職名 (役職在任期間) |
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日本西洋史学会 | |
史学会 | |
史学研究会 | |
ロシア史研究会 | |
ロシア東欧研究会 | |
関西大学史学・地理学会 |
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研究業績
No. | 研究業績の種類 | 発表年月日 | 標題 | 出版物の種類 | 共著・単著の別 | 出版社・掲載誌 | 巻・号・頁 |
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1 | 論文1 | 2016年9月 2016,09,00,,, | ロシア史におけるカシモフ皇国 | 関西大学 文学論集 | 第66巻第2号 | ||
2 | 論文1 | 2015年10月 2015,10,00,,, | モスクワ大公ヴァシーリー2世とタタール人皇子カシム | 関西大学 文学論集 | 第65巻第2号 | ||
3 | 論文1 | 2011年12月 2011,12,00,,, | カザーク軍団の創設期 : ロシア軍の一組織としてのカザーク | 関西大学 文学論集 | 第61巻第3号 | ||
4 | 論文1 | 2009年3月 15日2009,03,15,,, | ロシア・カザークと遊牧民 | 関西大学 文学論集 | 第58巻第4号 | ||
5 | 論文1 | 2007年3月 2007,03,00,,, | ロシア辺境の拡大とカザーク | 大学・研究所等紀要 | 単著 | 関西大学 文学論集 | 第56巻第4号 |
6 | 論文1 | 2005年3月 19日2005,03,19,,, | ヤイーク.カザークの起源説話-グーグニハと18世紀ヤイーク社会- | 大学・研究所等紀要 | 単著 | 関西大学 文学論集 | 54巻4号169-188頁 |
7 | 論文1 | 2003年3月 31日2003,03,31,,, | イヴァンゴロドの建設とロシアのバルト政策 | 大学・研究所等紀要 | 単著 | 関西大学東西学術研究所紀要 | 36号 pp.71-89 |
8 | 論文1 | 1999年10月 30日1999,10,30,,, | ヴォルガ・カザーク軍団の形成 | 大学・研究所等紀要 | 単著 | 関西大学大学論集 | 49巻1号59-81頁 |
9 | 学会発表7 | 1997年6月 28日1997,06,28,,, | 18世紀のヴォルガ・カザーク | ||||
10 | 論文1 | 1995年12月 25日1995,12,25,,, | 19世紀ウラル・ガザーク軍団領の社会=経済的変容 | 大学・研究所等紀要 | 単著 | 関西大学文学論集 | 45巻2号47-62頁 |
11 | 論文1 | 1995年3月 31日1995,03,31,,, | シャフ=アリーとサファ=ギレイ | 大学・研究所等紀要 | 単著 | 関西大学文学論集 | 44巻1-4号295-309頁 |
12 | 論文1 | 1993年12月 30日1993,12,30,,, | クリミヤ汗国とロシア(16世紀前半) | 大学・研究所等紀要 | 単著 | 関西大学文学論集 | 43巻2号37-59頁 |
13 | 論文1 | 1992年9月 30日1992,09,30,,, | 15世紀後半ロシアの対タタール外交 | 学術雑誌 | 単著 | 史泉 | 76号1-15頁 |
14 | 論文1 | 1991年3月 20日1991,03,20,,, | ロシアとタタール世界(キプチャク汗国の継承国家) | 大学・研究所等紀要 | 単著 | 宝塚造形芸術大学紀要 | 4号85-92頁 |
15 | 論文1 | 1990年7月 31日1990,07,31,,, | 初期カザーク史をめぐる諸問題 | 学術雑誌 | 単著 | ロシア史研究 | 49号2-16頁 |
16 | 論文1 | 1988年3月 25日1988,03,25,,, | カザーク辺境とロシア国家-17~18世紀のヤイーク地方を中心に- | 大学・研究所等紀要 | 単著 | 宝塚造形芸術大学紀要 | 1号59-72頁 |
17 | 著書2 | 1987年11月 24日1987,11,24,,, | プガチョフの反乱 良きツァーリはよみがえる | 単行本 | 単著 | 平凡社 | |
18 | 論文1 | 1986年11月 1日1986,11,01,,, | 18世紀南ウクライナの植民とザポロージエ・カザーク | 学術雑誌 | 単著 | 史林 | 69巻6号90-126頁 |
19 | 論文1 | 1985年9月 30日1985,09,30,,, | ザポロージエ・カザークとウクライナ(17世紀後半) | 学術雑誌 | 単著 | 西洋史学 | 138号21-37頁 |
20 | 論文1 | 1982年3月 31日1982,03,31,,, | 17世紀におけるドン・カザークの変貌-対ロシア関係を中心に- | 学術雑誌 | 単著 | 西洋史学 | 124号1-19頁 |
論文ロシア史におけるカシモフ皇国中村 仁志タタール関西大学 文学論集第66巻第2号2016年9月
論文モスクワ大公ヴァシーリー2世とタタール人皇子カシム中村 仁志タタール関西大学 文学論集第65巻第2号2015年10月
論文カザーク軍団の創設期 : ロシア軍の一組織としてのカザーク中村 仁志カザーク関西大学 文学論集第61巻第3号2011年12月
論文ロシア・カザークと遊牧民中村 仁志カザーク,遊牧民関西大学 文学論集第58巻第4号2009年3月 15日
論文ロシア辺境の拡大とカザーク査読無大学・研究所等紀要単著中村 仁志ロシア,カザーク関西大学 文学論集第56巻第4号2007年3月 和文ロシアの歴史は、辺境の絶え間ない前進による国家領域の拡大と多民族国家形成の歴史である。その過程において重要な役割を演じたカザーク(コサック)の動向に着目しつつ、ロシア辺境史の再構築をおこなった。
ロシアにおける辺境の性格を歴史的に定義し、辺境の地においてカザークの諸集団が形成された過程、カザークとロシア国家、カザークと近隣の諸民族の関係の変化などを整序しつつ、ロシア史においてカザークがもった意義を明らかにした。関西大学国内研究員研究費 20050401-20060331
論文ヤイーク.カザークの起源説話-グーグニハと18世紀ヤイーク社会-大学・研究所等紀要単著中村 仁志関西大学 文学論集54巻4号169-188頁2005年3月 19日和文
論文イヴァンゴロドの建設とロシアのバルト政策査読無大学・研究所等紀要単著中村 仁志イヴァンゴロド;イヴァン3世;歴史;ロシア;バルト海関西大学東西学術研究所紀要36号 pp.71-892003年3月 31日 1478年、イヴァン3世治下のモスクワ大公国はノヴゴロドの併合の完了する。以降モスクワを中核として形成されつつあったロシア国家は、バルト方面においてリヴォニア騎士団、スウェーデン、ハンザなどの諸勢力と対峙するようになった。
イヴァン3世時代のロシアのバルト政策における画期となったのは、1492年のイヴァンゴロドの建設である。イヴァン3世自身の名前を冠したこの城市は、ロシアの国境防衛の要となるとともに、ロシア最初の海港都市として西方との交易の拠点となった。
本稿ではこうしたイヴァンゴロドの役割を分析するとともに、イヴァン3世が同市の位置するフィンランド湾南岸のみならず北岸にも進出すべく、1495年から1497年にかけてスウェーデンと戦火を交え、フィンランド北東部のヴィボルグの奪取を図った経緯についても論じた。
論文ヴォルガ・カザーク軍団の形成査読無大学・研究所等紀要単著中村 仁志カザーク;ヴォルガ;ロシア関西大学大学論集49巻1号59-81頁1999年10月 30日和文カザークの歴史において18世紀は重大な意義をもつ時代であった。かつて自立した戦士の共同体であったカザーク諸軍団のロシアの軍事組織への組み込みが完成したのがこの時代である。
ロシア政府はカザークを自在に利用すべく、カザーク軍団のあるものを解体し、あるものを新軍団として再構成するなどの策をとった。その典型がヴォルガ・カザークである。
ヴォルガ・カザークは、母体であるドン・カザーク軍団から分離させられ、独立したヴォルガ・カザーク軍団として組織され、ついには解散させられて新たに設立されたアストラハン・カザーク軍団の一員として再組織されるにいたったのである。学部共同研究費 199804-199903
学会発表18世紀のヴォルガ・カザーク中村 仁志歴史;カザーク;ヴォルガ;ロシア1997年6月 28日ロシア東欧研究会和文
論文19世紀ウラル・ガザーク軍団領の社会=経済的変容査読無大学・研究所等紀要単著中村 仁志歴史;カザーク;ウラル;ロシア関西大学文学論集45巻2号47-62頁1995年12月 25日和文プガチョフ反乱の鎮圧後、ロシア政府は反乱において重要な役割を演じたヤイーク・カザークをウラル・カザークと改名させ、軍事的、行政的に政府の完全な統制下に置くようになった。
本稿ではこうした政治的な変化を経た後19世紀にウラル・カザークがどのような社会的、経済的な変化を遂げたかを検討したものである。
19世紀のウラル・カザーク地域におけるもっとも顕著な現象は、農業の発展とロシアからの移住である。
農業の急速な拡大とそれに従事するカザークの増加は従来の漁業中心のカザークの生活を変化させ、ロシアからの非カザークの急激な流入はウラル・カザーク地域における人口構造を大きく変えた。本稿ではこうした二つの要因によってもたらされた変化をウラル・カザーク軍団領の地域ごとに分析した。
論文シャフ=アリーとサファ=ギレイ査読無大学・研究所等紀要単著中村 仁志歴史;モスクワ;カザン;タタール;ロシア関西大学文学論集44巻1-4号295-309頁1995年3月 31日和文シャフ=アリーとサファ=ギレイは16世紀の前半、ともに数度にわたってカザン汗国の汗位についた人物である。
シャフ=アリーは、ロシアが推した候補であったのに対し、サファ=ギレイはクリミア汗国の汗家であったギレイ家の一員であり、クリミアとカザンをつなぐ人物であった。
歴史的なオールタナティブという観点からすると、シャフ=アリーはカザン汗国がロシアの影響下にありながらも高度な自治を保持する可能性を体現していた。これに対して、サファ=ギレイの方は、カザンとクリミアが共同してロシアを圧倒する可能性を体現していたといえよう。
しかし、結局はどちらの可能性もむなしく終わり、カザン汗国はロシアに征服、併合されるのである。
論文クリミヤ汗国とロシア(16世紀前半)査読無大学・研究所等紀要単著中村 仁志歴史;クリミア;モスクワ;タタール;ロシア関西大学文学論集43巻2号37-59頁1993年12月 30日和文キプチャク・ハン国の分裂後、継承諸勢力のなかで最大最強であり、その後継者をもって任じたのが大オルダである。ロシアとクリミア汗国は、この強大な大オルダを打倒すべく力を合わせたが、大オルダの滅亡後は、共通の敵を失った両国の間柄は緊張をはらみ出す。
その際、重要な焦点となったのがカザン汗国の汗位である。ロシアとクリミア汗国は、ともに自国の推すタタール皇子、すなわちチンギス汗の血統者をカザンの汗位にすえるべくしのぎをけずって争うライバルとなったのである。学部共同研究費
論文15世紀後半ロシアの対タタール外交査読無学術雑誌単著中村 仁志モスクワ;歴史;タタール;ロシア史泉76号1-15頁1992年9月 30日和文キプチャク・ハン国の分裂後、その旧領には大オルダ、クリミア汗国、カザン汗国、アストラハン汗国、ノガイ・オルダなどのタタールの諸勢力が生まれた。
分裂後もタタールは、ロシア=モスクワ大公国にとり、なお侮りがたい相手であり、1445年にはタタール軍と戦って敗れたモスクワ大公が捕虜になり、多額の身の代金を払って解放されるという事態も生じた。
タタールの手強さを思い知らされたロシアは、その後できるかぎり、タタール諸勢力間の対立、内部分裂を利用し、汗国を追われたタタール皇子を受け入れるなどしながらタタールと対処するようになったのである。
論文ロシアとタタール世界(キプチャク汗国の継承国家)査読無大学・研究所等紀要単著中村 仁志歴史;タタール;ロシア宝塚造形芸術大学紀要4号85-92頁1991年3月 20日和文15世紀半ばキプチャク・ハン国の分裂をうけて大オルダ、クリミア汗国、カザン汗国、アストラハン汗国、ノガイ・オルダなどのタタールの継承国家が分立するようになった。
本稿では、これらのタタールの継承国家を宗教、地理、経済の三つの基準において比較しつつ、ロシアとの関係について探ろうとした。タタール勢力は、卓越した騎馬技術に裏付けられた軍事力の基盤をステップ地域に持ち、その一方、政治的な中心でもある都市を通商、産業の拠点としていた。こうしたステップと都市のバランスについても比較対照を試みた。
論文初期カザーク史をめぐる諸問題査読有学術雑誌単著中村 仁志起源;タタール;カザーク;ロシアロシア史研究49号2-16頁1990年7月 31日和文カザークの起源を含むカザークの初期の歴史についての諸問題を学界の研究動向とからめながら検討した。
まず、起源問題では、カザークはもっぱら農奴制下のロシア、ウクライナからの逃亡農民に由来するという説と、起源においてはタタール人がある程度の役割をはたしたという説について検証した。
また、初期のカザークとロシア国家の関係、とりわけ軍役を中心とするカザークのロシア国家に対する勤務の特質については、エルマークのシベリア遠征と17世紀初頭の動乱期におけるカザークの行動の分析しながら検討した。
論文カザーク辺境とロシア国家-17~18世紀のヤイーク地方を中心に-査読無大学・研究所等紀要単著中村 仁志ヤイーク;歴史;カルムイク;カザーク;ロシア宝塚造形芸術大学紀要1号59-72頁1988年3月 25日和文本稿では、ヤイーク河流域に住んだヤイーク・カザークとロシア国家の関係を、ヤイーク河周辺の遊牧民族とのかかわりを念頭に置きながら分析した。
カスピ海の北岸に広がるステップ地域は、17世紀にはロシア国家の軍事的な同盟者となったカルムイク人の遊牧地となった。この時期ヤイーク・カザークは、ツァーリの命に応じてロシア軍の補助兵力として遠方の戦場におもむいた。
しかし、18世紀になるとカルムイク人の軍事的な価値が低下するにつれ、ロシア政府はヤイーク辺境の守備をカザークに託すようになった。それは、一面ではヤイーク・カザークの軍団領を拡大させたが、同時に軍団の正規軍化、カザークの自治の喪失をもたらしたのである。
著書プガチョフの反乱 良きツァーリはよみがえる査読無単行本単著中村 仁志歴史;カザーク;ロシア;プガチョフ平凡社1987年11月 24日和文ロシア史におけるもっとも顕著な現象の一つに民衆のツァーリに対する強い心理的な紐帯、ツァーリの善良さに対して民衆が寄せる幻想的でナイーヴなまでの信頼、いわゆるツァーリ幻想がある。
このツァーリ幻想が典型的なかたちであらわれたのが1773年に起こったプガチョフの反乱である。自分こそは、悪しき貴族の陰謀によって王座から追われたといわれているツァーリ、ピョートル3世であると僭称した逃亡中のコサック、プガチョフのもとに何万人もの民衆が馳せ参じ、良きツァーリの忠実なしもべとなって悪しき貴族を打倒しようとした。
本書においては、ツァーリ幻想が形成されてきた歴史的経過をあとづけるとともに、プガチョフの乱のさいにあらわれた民衆のツァーリ幻想の諸相を分析しこれが反乱の展開にどのような影響をおよぼしたかについて検討した。
論文18世紀南ウクライナの植民とザポロージエ・カザーク査読有学術雑誌単著中村 仁志ゲトマン;歴史;カザーク;ウクライナ;ザポロージエ史林69巻6号90-126頁1986年11月 1日和文18世紀の南ウクライナは、社会的性格の異なる二つの地域からなっていた。一つは北部入植地で、そこではロシア政府の主導下に大規模な植民がすすめられていた。他方は、ヴォーリノスチと呼ばれる南部で、新セーチを拠点とするザポロージエ・カザークの領土であった。
ロシア政府は、18世紀をとおしてザポロージエ・カザークのヴォーリノスチを蚕食しつつ、北部入植地を拡大していった。こうした領土侵害は必然的にザポロージエ・カザークとロシア政府のあいだに紛争を引き起こすこととなる。
その際、ザポロージエ・カザークは、北部入植地の植民者たちを自分たちのもとへ呼び寄せ、それによって自陣営を強化しようとした。この人的資源のヴォーリノスチへの流入はロシア政府にとって看過できるものではなく、ついにはロシア政府をしてザポロージエ・カザークの拠点たる新セーチの廃絶に踏み切らせたのである。
論文ザポロージエ・カザークとウクライナ(17世紀後半)査読有学術雑誌単著中村 仁志カザーク;歴史;ウクライナ;ザポロージエ西洋史学138号21-37頁1985年9月 30日和文ポーランド=リトアニア人領主のもとで農奴となっていたウクライナの農民のうちのあるものは、ドニエプル河流域に逃亡し、セーチと呼ばれる政治的、軍事的拠点を中心とするザポロージエ・カザークの共同体を作り上げた。
本稿では1654年のいわゆるウクライナとロシアの再合同(ないしはウクライナ併合)のあとの国際状況のなかでザポロージエ・カザークの演じた役割を検討した。
ザポロージエ・カザークは、「ウクライナの息子」としてウクライナの自由と独立を脅かす周辺諸国との闘争の矢面に立った。しかし、ウクライナ内部では彼らはウクライナの支配権をめぐって「ウクライナの父」たるゲトマンと争った。そして、このゲトマンとの争いのはてに、独立したウクライナを確立しようとするカザークのこころみはむなしく終わることとなったのである。
論文17世紀におけるドン・カザークの変貌-対ロシア関係を中心に-査読有学術雑誌単著中村 仁志ドン;カザーク;歴史;ロシア西洋史学124号1-19頁1982年3月 31日和文農奴制が敷かれていたロシア中央部からドン河流域に逃れてきた逃亡者たちを主たる構成員とするドン・カザークは、ドン・カザーク軍団なる共同体を組織した。
本稿では17世紀におけるドン・カザークとロシア政府の関係の変遷を、両者のあいだに介在した南部辺境の社会変化と関連づけながら検討した。
ドン・カザークは、1570年代よりロシア国家とゆるやかな関係を結ぶようになり、ロマノフ朝初代のツァーリ、ミハイル・ロマノフのころには広範な自治を享受していた。しかし、17世紀後半になるとロシア国家はドン・カザークを直接的な統制のもとへおこうとするようになる。
この間、ロシアとドンのあいだに介在した南部辺境は、農奴制のおよばぬ地として残り逃亡者たちをひきつけた。その結果として、辺境は逃亡者たちがドン・カザークと共同して農奴制ロシアに対峙するのを妨げたのである。
教育業績
- 2024年度
- 1.教育内容・方法の工夫(授業評価等を含む)
○資料映像(VHSビデオ・DVD)の視聴、パワーポイントによる教材提示、授業内容について説明したプリントの配布などを組み合わせながらマルチメディアタイプの授業を行った。 ○提出課題としての読書レポート、参考文献のリスト作りなどを通じて授業外の学習を促進した。 ○学生による授業評価の内容を参照して授業内容の改善に努めた。 - 2.作成した教科書、教材、参考書
主として卒業論文の作成を念頭に以下の諸点について説明したプリントを作成し教材として使用した。 ○参考文献の探索方法 ○研究発表の要領 ○配布用資料の作成方法 ○章・段落からなる論文の構成方法 ○論理的な文章表現をするうえでの留意点 - 3.教育方法・教育実践に関する発表、講演等
特になし - 4.その他教育活動上特記すべき事項
高大連携の推進のため、毎年兵庫県の仁川学院高校を訪問して同校の担当者と面談し、高校大学間のさらなる連携強化にむけて必要な情報交換を行った。